天つ風吹く頃
その日は朝から薄暗い雲が空を覆い、時おり強い北風が吹いていた。
レースのカーテン越しに、部屋に差し入る朝日には力がなく、窓ガラスを強く叩く風の音で美奈は目を覚ました。
「せっかくの休日なのにひどい天気・・・」
役立たずの目覚まし時計をひと睨みしながらベッドを抜け出すと、足下に愛描がすりよってくる。
「おはよう」
満面の笑みを浮かべながらそう挨拶すると、猫は首輪の鈴を嬉しそうに鳴らしながらキッチンへと走り去った。朝食の催促だ。
スリッパを履き、その後を追おうとしたとき、ナイトテーブルの携帯電話が視界に入った。
普段なら、何をおいてもまず飼い猫の朝食が先なのだが、この日は違った。魅入られたように手を伸ばすとメールの受信ボックスの中から厳重にパスワードでロックされたフォルダを開く。そこには送り主がすべて同一のメールが並んでいた。
その中から最新のものにカーソルを合わせると、一瞬間ためらいがちに親指をボタンから離したが、意を決したように本文を開いた。
『おはよう。
今日は美奈の誕生日だったね。おめでとう。
約束通りお祝いをしよう。
いつもの場所で午後一時に。
どんな格好で来るか分かっているよね?』
美奈は一文字づつ噛み締めるように目で追いながら、何度も読み返した。
ディスプレイに表示された文字は、単にデジタル化された情報に過ぎないが、『彼』からのメールは息衝き、意思をもった言霊として美奈の中に入り込んで来るのだ。
「ニャ〜」
美奈の思索は、朝食のおあずけをくらった哀れな猫のひと鳴きで現実に引き戻された。謝りながら、そそくさと朝食の準備をしながらも、心はどこか落ち着かない。軽い胸騒ぎを覚えながら、窓に近付きカーテンを開ける。
「あの日と同じだ・・・」
そこから見下ろす街路樹は、突風に吹かれ、なす術もなく最後の葉を散らしていた。
美奈もまた、強い北風にこの身を任せ、落葉樹のように蹂躙されたい衝動にかられた。
寝室に戻ると、パジャマと下着を脱ぎ、一糸纏わぬ姿で鏡の前に立った。目を逸らすことなく、自身のありのままの姿を見る。
それは『彼』と知り合う前の美奈にはとても考えられない行動だった。
素の己れを晒け、それを受け入れる。
「それが一番肝心なことだ」と『彼』は何度も言い聞かせてくれた。
虚像と対峙するように力強く直立すると、鏡の中の女の足首に視線を下ろす。ふくらはぎ、太股、下腹部へと舐めるように視線をはわせる。ゆっくり、しかし確実に視線はそこへと近付いていく。
初めて『彼』と逢った時、美奈は同じやり方で洗礼を受けた。そうやってすべてを晒け出させられたのだ。
その時の記憶が甦ってくると、自身の視線でありながら、まるで『彼』に視姦されているような錯覚に陥る。
体の芯に仄かな火種が生まれたのを感じた。
クローゼットから取り出した深紅のTバックとブラを身につけ、同じように燃るように赤いガーターストッキングに脚を通す。程好く肉付いた滑らかな脚のラインが、嫌でも目に飛込んでくる。我ながら厭らしい姿だと思う。と同時に、これが自分のあるべき姿なのだと確信する。
最後にはもちろん真っ赤な首輪をつけた。数年前の同じ日に『彼』から贈られたものだ。革製のその首輪は小型だがずっしりと存在感があり、まるであつらえたもののようにしっくりと美奈の首に馴染んだ。
顎の下には小さな鈴がついていて、揺れる度に微かな音を奏でる。
出掛ける準備が完了すると、もう一度鏡の前に立つ。
白い肌とは対照的に鮮やかな紅に彩られた肢体は、これから訪れるであろう一時を想い、すでに上気し始めている。
「牝犬・・・」
心の中で自身を罵ってみる。
『彼』が好んで使う言葉だったが、動物扱いされることに、自尊心の強い美奈は初め抵抗を覚えた。
しかし、いつの間にかそれは彼女にとって最高の誉め言葉へとなっていった。事実、先ほど生まれた火種はおさまるどころか、さらに熱を帯びている。
『彼』の好みは熟知していた。服は身につけず、そのままの格好で純白のステンカラーコートを羽織り部屋を出た。
猫が別れを惜しむように一声あげたが、美奈は振り向くことはしなかった。
すでに冬の気配が漂う晩秋の街並は、ダークトーン一色だった。白いコートに深紅のストッキングが覗く美奈の姿は、風景から浮かび上がり、通りすがりの男たちは、まじまじと不躾な視線を投げ掛けた。それはコートを突き抜け、下着姿を見ず知らずの男たちに露にしているかのような錯覚を覚える。
しかし、美奈は歩調を緩め、敢えて視線の先に身を投げ出した。『彼』ならそう指示するはずだった。
突然、北風が吹きすさんだ。コートの裾から入り込んだ風は、服を着ていない美奈の体を愛おしむように撫でていった。
不思議と寒さは感じなかった。
むしろ、内部から湧き上がる火照りを落ち着かせるそれを、心地良いとさえ感じた。
ふと、誰かに呼ばれたような気がした。
ハンドバッグから携帯電話を取り出すと、伝言メモに録音されたメッセージを聞いてみる。
『彼』からだった。
『・・・すまない、ちょっと遅れるかもしれない。急いで行くから、もう少し待っていてくれないか。じゃあ、また後で・・・』
聞き覚えのある、暖かい声が全身を包み込んだ。
目を閉じながら、その声が発せられた『彼』の口元を思い浮かべた。
美奈は知っていた。『彼』が望んだ『後で』が、もう二度と来ないことを。
北風に導かれるように、美奈は目的地へと急いだ。
美奈はまたこの場所に来た。何度も足を運び、通い馴れた道を歩く。歩く度に首輪の鈴の音は心地好く響いている。
ここへ来る途中、いつもの店でケーキを二人分買い、花束を用意した。
この坂を登りきると『彼』が待っている。
力強い風が吹いて、坂を登る美奈の背中を後押しした。
『彼』の好きなコート。『彼』に見せたい深紅の下着。『彼』から贈られた首輪。『彼』が好きだったケーキ。
『彼』の気配に包まれながら美奈はそこに辿り着いた。
「やあ」
優しい声で、そう聞いた気がした。
美奈は何も言わず、ただ微笑み返しながら、静かにそこへ屈み込んだ。
先ほど買った花束をそっと添える。ケーキを箱から取り出し、食べやすいように包を外した。
「ありがとう」
冷たい石は語りかけた。
あれから何度ここに来たことだろう。
自分を見失いそうになると、いつもここにきて『彼』の声を聞きたくなる。
眠りについた『彼』の肉声は届くはずもない。そう、永遠に。。。
しかし、心の声は今も尚響き続ける。
「お帰り」
「・・・ただいま・・・」
彼女はそう声に出してみた。
これから先、何度ここへ来るかは分からない。
でも『彼』の声が聞こえ続ける限りはここへ来よう。
そして私をこれからも見守り、導いていって欲しい。
**********
帰り道、もう一度携帯電話を取り出すと、今朝のロックフォルダを開けた。
最新メールの受信日付は『200×年11月×日』
それ以降、『彼』からメールが届くことはなくなったが、彼の命日にあたる今日、祝えなかった二人だけの誕生日パーティーをすることにしていた。
美奈の携帯電話に伝言メッセージを残した直後、『彼』は交通事故でこの世を去った。
時より『彼』からの着信音を聞いたように感じるのは、まだ、最後のメッセージを残しているからだろうか?
美奈は首輪をそっと外すと大事にバッグにしまい、代わりに『S』をモチーフにしたペンダントを身につけた。
もう新しい首輪の主が現れることはないだろう。
『彼』がこの世を去り、『彼』以上の主が現れることがないと悟った今、美奈はM女性として体に刻み付けられ、『彼』から教え込まれたものを全て受け継ぎ、それをM男性に伝導していく覚悟を決めたのだった。
そんな想いを人知れず胸にしたとき、一段と強い風が巻き起った。
風は街路樹を揺らし、黄色く色付いた葉を落した。
はらはらと風に乗った一枚の落ち葉が、美奈の肩にそっと手をかけるように舞い降りた。
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